先生のための心がまえ ~怒りの感情は、自分の中の「ねばならない」~

心がまえ

これは根深い心の問題で、まじめな人ほど「ねばならない」呪縛にとらわれています。
学校でいつも生徒に怒ってしまい、本人・生徒ともども消耗してしまっています。
でも「それ」は、本当にそんな怒るほどのことでしょうか?
一度、自分の中の「当たり前」「常識」を疑う時期に来ているのかもしれません。

あなたの中にある「怒りの種」は何? 生徒の行動がそれを教えてくれるこれに気づかないと家庭内のトラブルが起こる可能性も!?

相手のせいじゃない!怒りの感情は自分の中に種がある

ここに1人の背の高い女性、Aさんがいたとします。
その女性に会ったBさんが、「背がお高いですね」と悪気もなく言ったとき、
Aさんは怒り出しました。実はAさんには、背が高いことにコンプレックスがあったのです。
この例えを聞いて、悪いのはBさんでしょうか。

もちろん「Bさんの無神経さが、Aさんの怒りを買った」と見ることもできますが、
もう一方で「Aさんの中に『背の高いことはダメなことだ』という考えがあった」とも見れます。
Bさんがどうのこうのではなく、Aさんの中に「怒りの種」があった、ということです。

同じように背の高いCさんという女性がいたとして、
このCさんが「背の高いことは別になんでもない/またはかっこいい」という考えならば、
Cさんは怒ることなく、このセリフをスルー/喜んだはずです。

背が高い、という言葉に何も違いがないのなら(当然、悪意はないという前提で)、
その差はAさんとCさんがそれぞれどう捉えていたか、だけの違いです。

ここでは背の高さで例を出しましたが、学校ではいろいろなことで人が怒る場面があります。

怒った「それ」は、本当にそんなにダメなこと?

学校で怒るのは、主に教師です。(ときどきケンカで生徒も怒りますが)
その代表格は、以下のようなものでしょう。

生徒が宿題を忘れた
生徒が掃除をしていない
生徒が授業中によそごとをしていた
生徒が教師の指示を聞かない
生徒同士がケンカした
生徒が危険なことをしていた
生徒が同じミスを何度もする(同じ注意をされる)
etc…

この中のケンカと危険なことは、少し毛色が違います。
下手をすると身の危険、命の危険が迫る場合は、教師がしっかりと止める必要があります。

ただ逆に、宿題を忘れた、掃除をしない、指示を聞かない、ミスを繰り返すなどのことが、
大の大人が声を張って、子供に対して怒鳴りつけるほどダメなことなのでしょうか?

先ほどの「背の高い話」と同じく、教師の側に「怒りの種」が入っているのではないでしょうか
そのせいで無意識に教師側が冷静に話ができず、無駄に怒ってしまっているのなら、
どちらにとっても不幸なことだと思います。

怒りの裏には自分の怒りの種…「ねばならない」が隠れている

教師にはまじめな人が多い気がします。
それを踏まえた上で考えてみると、こういうことではないでしょうか。

生徒が宿題を忘れた→条件はみんな同じなのだから宿題は出さなくてはならない
生徒が掃除をしない→みんなやっているのだから、掃除しなくてはいけない
生徒がよそごとした→授業は静かに集中して受けなくてはいけない
生徒が同じミスする→話を聞いていないからミスをする!→教師の話を聞かなくてはいけない

まず今の時代、宿題そのものが時代遅れになっている感があります。
宿題そのものに意味があるのか? 生徒は1人1人違うのに一律に同じ内容をやる必要があるのか?
家庭学習なのだから自分で取り組むべきでは? 毎日提出しないといけない理由は?

など、考えればいくらでも出てきます。

また、現在はいろいろな環境の生徒がいます。
宿題を忘れるという行為1つをとっても、その裏には様々な理由が隠れています。
塾や習い事が忙しすぎる、スマホ中毒、親が遅く帰るために放置… etc.
それを何も考えずに「宿題は出さなくてはいけない」という怒りの種に触れただけで
教師が生徒を怒るということは、もうやってはいけないことだと思います。

自分の「怒りの種」を自覚した上で、学校という特殊な場の中でバランスをとる

特に教師という職業についている方は、自分の中に怒りが出てきたときには
いったん立ち止まって、ゆっくり自分の中を見つめてみてください。

「なんで私はこれに対してこんなに怒れるんだろう?」と。

そうすると、時間は多少かかるかもしれませんが、自分の中にある原因(種)が見えてくるはずです。
その原因が分かってくれば、生徒の行動も冷静に見ることができます。

生徒の行動を冷静に見ることができれば、冷静に対応することができます。
怒ることなく生徒の話を聞き、伝えたいことを伝えればよいのです。

ただ、そうはいっても学校は特殊な場だと考えられます。
校則などの一定のルールがあり、それを破ると全体に影響を及ぼすことは確かにあります。
なんでもアリというわけではなく、ダメなことはダメと伝えながらも、
なぜダメなのかも教えながら、必要があれば変えていける勇気と行動力が大切になるでしょう。

家庭でも自分の子供に対して同じことが起こっていませんか

これは教師に限った話ではありません。
職場でよく怒っている人、または親であっても同様です。

特に親が自分の子供に怒ってしまっているとしたら、それは怒りの種が原因かもしれません。
つまり、親の思い込みで子供を怒っている可能性です。

それが積み重なると、子供は閉塞感や愛情不足を感じて、多くは家庭内でトラブルが起こり始めます。
家庭内だけならまだしも、外でのトラブル…友達とのケンカ、果ては犯罪もあり得ます。

親としては愛情のつもりで怒ったとしても、子供からすれば「怒られた」だけです。
感受性の高い子であればその裏の意図も汲み取れるかもしれませんが、
それに期待するのは酷というものでしょう。
(躾という名の虐待も同様、最悪なケースです)

そうならないためにも、大人が自分の怒りの種に気付き、
子供に対して冷静に話すことができるよう心掛けてほしいと願うばかりです。

まとめ 「本当にダメなこと」なんて、正直あんまりない

教師としてはダメでしょうが、世の中に本当にダメなことなんてあまりありません。
正直、学校なんか行かなくても立派に大人には育ちます
これも「学校には行かなくてはならない」という思い込みがあります。

他人に迷惑をかけてはいけない、というのも「ねばならない」の1つです。
子供なんて、周りに迷惑をかけるものではないでしょうか。
我々大人だって、周りにまったく迷惑をかけずに生きてはいないはずです。
周りに迷惑をかけてもいいと思えたときに、この思い込みが外れます。

「じゃあ犯罪をして迷惑をかけてもいいのか!?」という方が出てきそうですが、
そこには「愛」がありません。最初の「背の高い話」と同じで、悪意がないのが前提です。
悪意に対しては毅然と対応するべきだと考えます。

今の世の中には、気づかないだけで「ねばならない」が星の数ほど存在します。
全部は無理だとしても、少し自分の考え方に意識を向けてもらい、
この「ねばならない」から解放されていってほしいと思います。

補足 もっと深く話すと…常識からはずれてくる

動物として生まれた以上、本来であればどのような生き方をしても自由なはずです。
いつ起きて、何をして、いつ寝ようが、本来は自由です。
サバンナに生きる動物が朝7時には起きて、仕事をして、夜10時になったら寝る、
なんて行動はしません。生きたいように生きているのが本来の動物の姿です。

つまり、今我々は自由ではないのです。
社会の常識、家族の常識など多くの「ねばならない」がある世界で生きているからです。
社会的動物だから仕方ないと思いますか?
それは自由とおそらく無関係です。
我々がそういう選択をしているだけなのです。

動物として本来は自由、そう考えれば「ねばならない」ことなんて元から存在しないのです。
だからこそ「世の中にそんな怒ることがありますか?」という問いが生まれます。

ただ、ここまでくると理解をされない方が多くなってくるので、
補足内の内容はあまり他言しないほうがいいかもしれません。

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