教員なら通信のネタや朝の会・帰りの会の小話として、
他の社会人でもスピーチなどのネタになりそうな話を紹介。
今の学校は鋳型である説
昔は何の疑問ももたずにいたが、最近はどうにも不思議に思えてならない。
「なんで個性がまったく違う生徒に、同じ場所で、同じ内容を教える必要があるのだろう?」と。
生徒の中には、勉強が得意な子がいれば、苦手な子も当然いる。
それは勉強ができる子が素晴らしい、できない子がダメだという意味ではなくて、ただの個性にすぎないということ。
よく車で例えるが、F1で走るような速い車がすごくて、バスのように遅い車には価値がない、なんてことにはならないのと同じ。
F1の車はスピードは出るけど1人しか乗れないし、燃費は猛烈に悪い。
バスは確かにスピードは出ないけど、大勢の人間を一度に運ぶことができる。
どちらも素晴らしい個性だ。
学校の教育は、この2つの個性に
「スピードが速いことが素晴らしいんですよ!がんばって速く走れるようになりましょう!」
と、1つの価値観を前面に押し出しているのと同じなんじゃないだろうか。
そりゃあ否定される人はおもしろくないし、そんな場所には行きたくもなくなる。
最近の学校で不登校が多いのは、そういうのが原因なんじゃないかと思う。
周りの大人の価値観が生徒を生かしも殺しもする
学校は上に書いた通り、
従順・勤勉・真面目
こういう生徒が生き残るには最適な場所だろう(他意はありません、それも個性だから)。
これらが苦にならない生徒にとっては居心地がいいが、これとは正反対の個性の持ち主にとっては地獄に変わってしまう。
学校というシステムがそうである限り、そこから脱却するのは難しい。
(中学なら高校入試がある以上、従う他ないことが多い)
システムとしては仕方ないからこそ、それを扱う人間がポイントだと思う。
それは保護者であり、教師がそのことを理解しているかどうか。
・学力は1つのものさしに過ぎず、個性は十人十色なこと。
・人によって得意なことが必ずあること。
・自分の得意を生かせる場を探すことが大事であること。
学校のシステム内では限界はあるが、それでも救われる生徒は多くなるはず。
システムの欠陥を理解しつつも、そのうえでどう生きるべきかを伝えられるかどうか。
それが生徒の人生を大きく左右する。
僕たち・君たちはどう生きるか
個人的には、学校だけではなくて、もっと多様性のある学びの場があるべきだと思う。
寺子屋的な学び場所、技術を学ぶ場所、もっと専門知識を学ぶ場所 etc…
いわゆるジェネラリスト(なんでも屋)ではなく、プロフェッショナル(専門家)を育てるべきなんじゃないか、と考えている。
ただそれをしないのは、行政側が今のシステム(均一にならされた労働力の確保のための学校)が便利だからだろうし、手間も金も惜しいからだと邪推する。
(事実、日本は教育にお金をかけない国です)
何も考えずに生きていれば、その波に飲み込まれてしまうだけ。
だから、自分の頭で考える。
他人に自分の生殺与奪の権利を与えない。
自分にとって何が大切で、
何に興味があり、
何がしたくて、
どう生きたいのか。
あなたの人生に責任がとれるのは、あなたしかいないのだから。
それが大人であっても子供であっても、それは変わらない。
まずは自分自身がそのように生きることが第一になるし、
その姿(言動)を通して自分の子供・生徒もそのように生きるようになるだろう。
こんな時代だからこそ、どう生きるか。
自分の頭で考えることが求められるのじゃないだろうか。
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